今回はオランダを代表する画家、レンブラントが生前住んでいた「レンブラントの家」について紹介します。代表作の『夜警』は知っていても、レンブラントがどんな人生を送り、なぜあのような傑作を生み出せたのかを知らない人も多いのではないでしょうか。レンブラントを知り、「レンブラントの家」を訪れることで、『夜警』制作の背景にある彼の人生を肌で感じることができ、彼が絵に込めた想いを理解することができるはずです。
「光の魔術師」と呼ばれるレンブラントは、オランダのフェルメール、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスと並ぶ、バロック時代のオランダを代表する画家。とくに彼の代表作である『夜警』(別名『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊)』)は集団肖像画の最高傑作であり、世界3大名画の1つと言われています。
<<両親の期待に反して、画家の道へ>>
1606年オランダのライデンに生まれたレンブラントは、本名をレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn)と言い、製粉業とパン屋さんを営む両親の8番目の子供として生まれました。飛び級で公立大学(ライデン大学)に進学できるほど頭が良く、兄弟の中で唯一大学に進学したこともあって両親はレンブラントに法律家になってほしいと期待していたのですが、本人にはその気がなく、数ヶ月で大学を中退した後は歴史画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りして画家の道を目指しました。
<<アムステルダムへの進出と社会的成功、そして結婚>>
生まれ育ったライデンにて名声を得ていたレンブラントは、さらに高みを目指してアムステルダムへ進出しました。そして、1632年には『テュルプ博士の解剖学講義』という大作を受注して成功を収め、社会的名声を手に入れます。この集団肖像画は、それまでの記念写真のように動きがなく没個性的な伝統的な絵画と違って、登場人物たちを生き生きと描いたダイナミックな絵画であり、当時としてはとても斬新的な表現方法でした。また、社会的には高い評価を得る一方で、私生活ではサスキア・ファン・アイレンブルフという裕福な一族の娘と結婚しています。
「Mauritshuis, The Hague」より引用
<<「レンブラントの家」の購入と『夜警』の制作>>
仕事もプライベートも順風満帆なレンブラントは1639年、後に「レンブラントの家」と呼ばれる豪邸を分割払いで購入します。これ以後はこの家を工房として絵画を制作することになるのですが、この豪邸の購入には13,000ギルダーもの費用がかかりました。当時、大工さんの年収が250ギルダーだったことを考えると、これはかなりの大金でした。
「コインの散歩道」より引用
また、この時期には有名な『夜警』を制作し始め、1642年にはそれを完成させます。この『夜警』は依頼元である火縄銃手組合の組合会館に掲げられましたが、そのあまりの傑出性ゆえ「展示された他の絵が、まるでトランプの図柄のように見えてしまう」と言われたりしました。
<<妻の死去と2人の愛人、そして自己破産へ>>
『夜警』を完成させた頃から、レンブラントの人生に陰りが見え始めます。1642年には妻のサスキアを病で亡くし、息子のティトゥスの乳母として雇ったヘールチェ・ディルクスと愛人関係に陥るのですが、その後に新たに家政婦として雇ったヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘルとも愛人関係になってしまったため、私生活は泥沼状態を迎えることになります。結局、最初の愛人であるヘールチェに訴えられ、毎年200ギルダーものお金を彼女に支払うように裁判所から命じられてしまいます。
私生活だけでなく、この頃は仕事も上手くいっていませんでした。当時、肖像画と言えば、顧客の要望通りに立派に威厳があるように描かなければいけなかったのですが、レンブラントは自らの芸術性を追求するあまり顧客の要望を軽んじることもしばしばで、よく顧客を激怒させていました。なので当然、仕事の依頼は徐々に減っていき、収入に困るようになっていきます。
またこれに加え、レンブラントには浪費癖があり、絵に必要と思えば骨董品や古着、絵画から版画、デッサンまで幅広く金に糸目を付けずに購入していました。仕事の依頼が減ってからもこの浪費癖は治まらず多額の借金を抱え、1656年には破産にまで追い込まれ、購入した豪邸も競売にかけられることになってしまいました。結局晩年は「パンとチーズと酢漬ニシンだけが一日の食事」と記されるほど、生活に困窮していたようです。
『夜警』は夜ではなく、昼を描いた絵だった?!!
名前から“夜”の様子を描いた絵だと思われがちですが、実は“昼”の様子を描いた絵なんです。表面のニスが年月を経て黒ずんでしまったため、長い間夜を描いた絵のように見えていましたが、20世紀に入ってニスを洗浄作業で取り除いた後、この絵が昼の絵であることが判明しました。
ものを立体的に見ることができない「立体盲」だったレンブラント
多くの研究結果から、レンブラントはほぼ間違いなく「立体盲」だということが分かっています。レンブラントは外斜視(片目だけが外側を向いてしまう症状)で、ものを立体的に見ることが困難であったようです。そのため、ものを平面的に捉える能力に長けていただけでなく、片目でより多くの視覚的機能を果たすことができ、それが結果的に数々の傑作を生み出すのに繋がったと考えられています。
アムステルダムにある「レンブラントの家」(Museum Het Rembrandthuis)は、レンブラントが1639年からの20年間、彼が自己破産して家が競売にかけられるまで住んでいた実際の家です。1911年に博物館として開館され、内部は当時レンブラントが住んでいたように再現されています。たくさんの絵画だけでなく、スケッチやエッチング(版画制作方法の1つ)が充実していることでも有名で、とくにエッチングに関しては200点以上もの作品が展示してあります。
博物館の内部には、レンブラントが当時生活していた家の内部がほぼそのまま再現されています。彼が仕事をしていたアトリエはもちろん、寝室やキッチン、ダイニングルームといった部屋まで再現されているので、まるでタイムスリップをして彼が住んでいる家の中を実際に歩き回っているような気分になれます。
レンブラントが絵を描いていたアトリエは、本当にリアルに再現されています。アトリエの中に入ると大きな窓があり、窓から差し込む光を眺めていると、なぜレンブラントが「光の魔術師」と呼ばれるに至った数々の傑作を生み出せたのか、を肌で感じることが出来ます。また、当時レンブラントが使っていた顔料や絵筆といった画材もそのまま再現されており、顔料と油から絵の具を作るデモンストレーションも博物館のスタッフによって毎日行われています。詳しい情報は博物館のホームページに記載されています。
レンブラントが使っていたアトリエの上の階には、彼の弟子たちが絵の修業で使っていたアトリエが再現されてあります。窓に沿って仕切りで区切られたスペースが一列に並んでおり、彼らもまたレンブラントと同じように、自然光をたっぷりと取り込める大きな窓の側で絵を描いていたことがよく分かります。また、仕切りにはレンブラントの絵が掛けてあり、それを手本に絵の技法を学んでいたようです。
<<開館時間>>
午前10時から午後6時まで。
(月曜〜日曜まで開館。臨時休館などの情報はホームページを参照。)
<<入場料>>
大人(18歳以上):14ユーロ
子供(6歳以上17歳以下):5ユーロ
子供(6歳未満):無料
<<住所・アクセス>>
Jodenbreestraat 4
1011 NK Amsterdam
+31 (0)20 520 0400
アムステルダム中央駅から徒歩で14分。電車の場合はアムステルダム中央駅からメトロ53番もしくは54番に乗り、Nieuwmarkt metro stationにて下車してから徒歩4分。
今回は「レンブラントの家」を紹介しました。絵画だけでなく、レンブラントがどのように生活していたかを肌で感じることのできる興味深い博物館なので、ぜひ足を運んでみてください。